自分のやりたいことなら絶対に諦めてはいけない。
新春特別インタビュー
中日ドラゴンズ
藤嶋健人選手
豊橋出身の中日ドラゴンズ藤嶋健人選手が、お正月の帰省中、本誌の取材に気さくに応えてくれた。小学生時代から現在に至るまで様々なエピソードを聞くことが出来た。
藤嶋選手は小学生の頃、栄ドリームスで軟式野球を始めた。当時から周りの子たちより、体も大きく野球もできた。本人曰く少々天狗になっていたところもあったそうだ。ある時、連盟の会長から直々に注意を受けた。その時チームプレイや相手のことを考えることの大切さに気付かされた。チームとしてはなかなか結果が出せないでいたが、どうしてもこのチームで勝ちたいという思いで臨んだ小学生最後の大会でようやく優勝できた。
中学からは東三河ボーイズで硬式野球を始めた。この頃から野球の厳しさを知り始める。なかなかチームタイトルは取れなかったが、野茂ジュニア・オールジャパンの代表選手に選ばれている。このころには既に注目をされ始めていたはずだが本人はまだ、本気でプロ野球選手になれるとは思っていなかったそうだ。
高校は皆さん周知のように東邦高校に進学。当時東邦高校は6年間甲子園から遠ざかっていたため、これも本当に甲子園に行けるとは正直思っていなかったそうだ。それでも1年生から3度甲子園に出場し、大活躍で全国的に藤嶋選手の存在は知れ渡った。
幼い頃からプロ野球選手になることは確かに夢だったが、小、中学生の時代に目標とはなっていなかった。本気でプロを意識し始めたのは、甲子園で結果を出してからだという。ひとつひとつのやるべきことや目の前の壁をクリアすることで夢が現実味を帯びて、やがて目標に代わっていったという。
小学校から高校まで常にチームの中心で野球を思う存分楽しんできたがプロ入り1年目で初めて苦境に立たされたそうだ。ファームで140試合ほどの試合がある中、2試合しか登板できず来る日も来る日も練習するだけで、本当に腐りかけたという。しかしそれでも悔しさをかみしめながら耐え、諦めなかったからこそ、2年目、3年目の結果に結びついたのだとこれまでを振り返るように話してくれた。
また現状任されている中継ぎの重要性についても熱く語ってくれた。ピッチャーは先発花形のように思えるが、投手交代のリスクを請け負う責任重大なポジションに大きなやりがいを感じているという。常に与えられた役割に対してやりがいや面白さを見出すよう心掛けているそうだ。
小中高とずっと兄と同じチームを選択、そのためいつも藤嶋の弟としてスムーズに野球ができたのは、兄のおかげだと話す。兄を始め両親家族の協力など全ての環境に恵まれ、ここまでこれたと感謝しているという。
豊橋のジュニアアスリートたちに向けて「自分のやりたいことなら絶対に投げ出さず諦めずに続けて欲しい。夢はひとつひとつ目標を超えて近づけるもの、夢をイメージすることが大事」と語ってくれた。藤嶋選手は中学、高校とオールジャパン代表選手を経験している。この先は侍ジャパンのメンバーとなることが夢だと目を輝かせながら語ってくれた。